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会報No.104 -その5-

世話人の思い 

Dさん

私が、B型肝炎のキャリアであると言うことは30代前半に献血をし、日赤からあなたはB型肝炎のためもう献血に来ないでと言うハガキを貰い知りました。

B型肝炎て何や?その頃の医学界では、今で言うコロナと同じように怖いウイルス性の病気だと認識があったようですが、近所の医者へ聴きに行くと思い切りいやな顔をされ何の指示も無く、もう来るなと言うような態度だった記憶のみあります。今から18年前の62才の時に肝臓がんを発症し、(ステージⅡ 4cm大)と診断され切除手術を受けました。B型肝炎のキャリアだと言われてから、約30数年間無症状だった。本当に無症状だったのか? 50歳を過ぎた頃からB型肝炎のキャリアだと伝えて診察していただいていた、前記の医者ではない別の医者で血液検査を受け、肝臓の数値が悪い時に昨日徹夜でもされましたかと言われ数年そのままでした。

今の医療水準ならすぐに専門医へ行ってくださいと指示され、治療を受けてたら肝臓がんを発症していなかったかも!しかしその頃は、現在のように肝臓の専門医が多くいるわけでも無くウイルス性肝炎について知識の無い自分ではどうしようもありませんでした。

切除手術後、私を救ってくれたのは医者ではありませんが医学界に顔が効く大学時代の現在は東京在住の友人で、必ず再発するから少しでも長生きしたいなら自分の病気の状況を勉強しろと言われました。唯一彼にだけその昔にB型肝炎のキャリアであることを伝えてありました。

切除手術翌年再発を宣告され、その時期に各地で行われていたあらゆる肝臓の医療講演会に行き肝臓がんについて勉強を始めました。再発後の治療についても切除術を受けた病院の先生とは意見が合わず他の病院でラジオ波(RFA)で治療して貰うことにしました。

再発治療後病気について患者会が一番情報を得られるのではと思い、15年前に京都肝炎友の会に入会させていただきそれ以来世話人をさせていただいています。

その頃の患者会は200名を超える登録会員数でC型肝炎の患者さんがほとんどでC型肝炎は治る薬が出来、それまでB型肝炎を眠らせるアナログ製剤をうらやましいと言っていたのに、一夜にして逆転?B型肝炎は取り残されました。生きている間にC型肝炎の薬のようにB型肝炎も治る薬ができれば良いのにと願っております。

肝炎友の会では色々学ばせて戴きました。医療講演会の担当になり、準備から先生方への交渉京都府肝炎対策協議会の委員を拝命し、府の肝炎対策の講師や製薬会社の社員教育看護学校や大学での患者講義をさせていただいたり、15年間大変勉強させて戴きました。

患者講義後の批評は多数戴きましたが、その中で一つ心に残っているのは、Dさんの話をもう少し早く聞いていたらうちの親父ももう少し長く生きられたのでは?と言う内容で身内に患者さんがおられたり、患者本人で困っておられる方が多くいらっしゃるのではと患者会の存在意義を大いに感じます。                                   

最後にこの15年間の間に私のまわりで患者会の世話人が3人それ以外で2人の方がC型肝炎やB型肝炎が原因でお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします。

私が肝細胞がん発症後18年も生きてこられたのは、家内の献身的な介護と友人の存在、それと肝炎友の会の存在のお陰と思います。

Fさん

母子手帳では                     

私はC型肝炎患者です。

1973年に第一子を出産し出産後出血が止らず医師から半日後に「出産後なので輸血が出来ないので、血液製剤で止血する。このままなら死ぬよ」と言われその治療を受けました。その後も疲れやすい日々を過ごしていました。

25年後(49才ごろ)手にしびれが出て神経内科を受診していたとき医師から「ウイルス検査しても良いか」と言われ検査してもらいました。その結果はC型肝炎でした。

その時点では、罹患率は25%で担当医と相談して、治療はしませんでした。(私の肝数値は悪くはなかったので)

C型肝炎と分かってから10年後60才のとき高齢ということでインターフェロンの治療を始めましたが、一回目も二回目もウイルスが消えることはありませんでした。

ハーボニ錠でやっと「ウイルス検出せず。」になりました。長い間、死ぬか、薬ができで間に合うか、と言われてきましたので薬が間に合いました。10年間は検査が必要ですが、C型肝炎にも救済制度が出来ていました。救済制度を受けようと弁護士さんに相談して、調べてもらいました。

出産後の時なので、母子手帳には、病院名も担当医師名も分かっていました。しかし病院にはカルテは無く(カルテの保管期間5年)担当医師も亡くなっていましたので、証明が出来ず救済の対象にはなりませんでした。病院自体は薬害の止血剤(フィブリノゲン )を使っていたことを認めていましたが、カルテがないので、誰に使用したか分からないのです。

母子手帳には、子供の成長記録は記入してありますが。母親の産後の体調等の記録するところはありません。救済制度には役に立ちませんでした。

  母子手帳なのに!

会報NO.104 -その4-

世話人の思い

Aさん

昨年令和5年11月より京都肝炎友の会の世話人に参加しています。 

令和2年3月に肝炎医療コーディネーターの研修後、認定されました。当時はコロナ感染の状況の下でもあり、肝炎友の会の活動も自粛されているとのことでした。昨年5月8日からコロナは感染症となりましたが、感染症はジワリジワリと増加の状況でした。そのような中、京都府から肝炎医療コーディネーターの認定更新の案内送付がありました。その中に京都肝炎友の会の冊子が入っておりそれを見て改めて連絡し、世話人会に参加することになりました。世話人会では皆さん忌憚のない真摯な話し合いには頭が下がる思いです。京都肝肝炎友の会が今まで積み上げてきた活動の実績を京都府や京都市と相好的な関係を継続させながら会が発展できることを願っています。

Bさん

私は今年の4月でB型肝炎を発症して、50年になります。

そして、京都肝炎友の会には2017年の総会に参加して以来、世話人会にも参加するようになりました。 この間、7年弱ですが、私たちウイルス性肝炎患者の置かれた状況や国・自治体との関係など多くを知ることが出来ました。

 発症の主な原因は国の誤った判断によるもので、肝炎対策基本法の前文にも示されています。その上でこれからも、患者支援の思いをしっかり持って活動を継続していきたいと思っています。

Cさん

結婚して長女を出産。これは新しい人生に始まりです。その時告げられたのは「あなたはB型肝炎です。母乳はあげないでください。同じ箸で食べ物を口に入れないでください」と。母乳は捨てました。それでも子供は母子感染していたのです。長男も同じように母子感染していました。私自身は子供が小学生のころ、肝炎を発症しました。そのころは母親の介護もありました。治療もほとんどせず、ビタミン剤だけ注射してもらっていました。肝数値値は上がったり、下がったり。そんな中で少し調子のいい時をついて動いていました。両親4人を20年間介護しました。そしてその後は子供のフォローに変わりました。娘が働きながら家庭を持つことは体にダメージを与えるのではないかと思い、少しでも休ませてあげたいと思ったからです。娘が肝臓や他の臓器の治療入院の時は娘や、孫たちに寄り添ってきました。長男は就職活動がうまくいかず、体を壊し始め、あっという間に脳性肝炎となり肝移植まで進行してしまいました。それからもう5年以上になりますが、体を維持するため、大量の薬を飲み続けています。そのためか薬による体調の変化が見られ、良かったり、悪かったりを繰り返しています。体にも心にも多大のダメージが与えられているようです。子供も私も悩みながらの5年間です。仕事にも行けるようになりましたが体の不調により活動できないことが多いです。私はじっと見守るしかできません。これからもずーっと子供たちを見守るだけです。

月1回の世話人会に参加しています。肝臓の専門医の講演会や、薬メーカーの参加されて一緒に話を聞いたりしました。肝臓のことについて様々なことを知ることも出来ました。特に会報は繰り返し読めるのでいいと思います。世話人会でみんなの顔を見ると肝炎の話が中心になってしまうのですがそれは安らぎにもなっています。