「2024年2月19日 京都新聞」 |
「京都肝炎友の会」カテゴリーアーカイブ
会報No.104 -その6-
世話人の思い
Gさん
京都肝炎友の会の世話人をしています。それは感謝の気持ちからです。
主人がC型肝炎と分かった2002年、消化器内科のある病院に行きました。治療はインターフェロンをしましたが、血小板の数値が下がりすぎ断念、その後強力ネオミノファーゲンシー静脈注射を続けていましたが、現役会社員にとって通院は大変で疲れてしまい行かなくなってしまいました。その頃は全くって言っていいほどこの病気に関する情報はありませんでした。C型肝炎の医療講演があると情報があれば知識を得るために行っていました。ある講演でC型肝炎の患者は肝臓専門医のいる病院に行くようにと聞き帰宅しました。自宅の近くの病院におられることがわかり肝臓専門医にようやく診察してもらうことができました。その時の医師とのやり取りにより、すごく安心できたことを覚えています。通院しながらも情報を求めて医療講演会にはいろいろ行っていました。
その中のひとつが京都肝炎友の会の医療講演会、たくさんの情報・知識を得ることができました。心から感謝しました。ある診察の日、主治医が『医師ができることは限界がある。患者自身が患者同士で知識、思い、情報等を共有すること語り合うことが良いこと』と提案され、京都肝炎友の会に主人が入会しました。その後世話人として参加しました。そして、妻である私は主人にくっ付いて行きました。世話人会も会報発送も一緒に、時には日肝協の全国大会に徳島、栃木、兵庫、大阪と出席しました。自分の病気と向かい合いながら、目的をもって生活する主人の姿は、私の目には病人ではありませんでした。ともに過ごした良い時間でした。C型肝炎の新薬で、C型肝炎ウイルスは排除でき、定年まで勤め、これからゆっくり過ごそうと思っていましたが肝臓が悲鳴を上げ亡くなりました。 会報NO.91を編集途中で出来上がっていませんでした。続きは私がしました。そして今回NO.104を仕上げています。主人と過ごした京都肝炎友の会への感謝とともに引きつづき私にできることをしたいと思っています。これからもよろしくお願いします。
Hさん
私はB型肝炎ウイルスキャリアです。大阪弁護団のもと裁判をして認定されました。
そして言葉の意味さえ分からない状態で肝炎友の会の世話人となり9年になりました。
その中で教えてもらったり、各大学の消化器内科の諸先生方の講演を聞いたりしながら少しづつ理解ができるようなっています。
今はB型肝炎ワクチン(幼児接種)ができ感染が防げるようになっています。
一生に一回は必ず肝炎検査を受けてください。無料です
Iさん
世話人をしてもう20年をはるかに超えました。C型肝炎という言葉も知りませんでした。当時は職場で健康診断の結果が出るとみんなと見せ合って話題になるのはコルステロールとか血糖値でした。肝機能など話題にも挙がっていませんでした。見せあう中でなんで他の人より肝機能数値が高いのだろうと不思議には思っていました。
もちろんどこがしんどいわけではないので「再診を」という診断結果を2回無視しました。同じ職場にB型肝炎だという若い同僚がいることは知っていました。B型肝炎がどんな病気なのか聞いたかもしれませんが、右から左でした。当時みんな馬車馬のように働いている中、彼女は休憩時間を要求し、更衣室で休憩することをみんな認めていました。認めたというより彼女はそうせなあかん人なんだと見ていたと思います。ウイルス肝炎がどんな病気なのか分かった今、彼女には大変申し訳なかったと思っています。彼女はそれから何回も入退院を繰り返し、あちらこちらの病院を駆け巡り、最後は失意のままなく若くしてなくなりました。世話人になる決意をした一つに知らないことの怖さでした。
そして私は50歳の時C型肝炎と診断されました。非A・非Bウイルス肝炎でないC型ウイルスが発見されて2年目ぐらいです。インターフェロン注射を4週間しました。たくさんC型肝炎の患者が入院していました。8人部屋で3室くらいほとんどがC型肝炎でした。夜8時に注射が始まる。それまで入院中にかかわらず、許可さえもらえば出入り自由。外でランチしたり、市内をうろうろしたり。8時になると「フェロン部屋の皆さんお部屋のお戻りください」という放送がありました。それでも昨日まで楽しい人が今日誘いに行くとカーテンがかかり出てこない。いつの間にかいなくなりました。副作用がきつく治療を断念したそうです。
私の治療はその時は消えるのですが再燃。55歳で同じ2回目の治療。又再燃。60歳で同じ治療をしたのですが思うような数値が出ない。このままこの治療を続けたら消えるかもしれないという主治医の言葉を信じたのと、絶対治すんだという気持ちが強くあり継続を決意しました。唯4週間、健康保険は使えるがあとは自費。当時インターフェロンは一本一番安いので2万円くらいだったかなー。よし退職金使いきるぞーと決めたものの、一番安いインターフェロンの注射に3か月くらい市内まで通いました。そのあと近所の先生に変えていただき1年くらい頑張りました。副作用でしょうか。いろんなことが出ました。1番困ったのはめまいでした。とにかくいつも体はフラフラして何かにつかまっていないと立てない不安定状態。外に出るときは夫のズボンのベルトにしがみついて歩いていました。これを見ている近所の人は「あんたとこはいつも手つないでなかええなー」と羨ましがられたものでした。インターフェロンの長期使用が保険適用となり差額も返りました。ウイルスも消えました。インターフェロン単独で治ったのは2パーセントくらいだったそうです。賢明な判断をされた主治医の先生に感謝感謝です。徐々にはふらつきも改善してきましたが体がしゃんとするまで10年はかかりました。
患者会には入院しているとき入会したのですが世話人なったのはウイルスが消えてから63・4歳だったでしょうか。それから20数年今日に到っています。世話人会の皆さんもいろんなしんどさを乗り越えてこられています。ですから世話人会は元気ですし、やる気満々で楽しいです。
この30数年でウイルス性肝炎を取り巻く状況は大きく変わってきました。そのきっかけは国が引き起こした病気であることを認めた肝炎対策基本法の成立があったからです。その底辺には多くの犠牲もありました。この人たちに対しても世話人会の役目はまだまだ続くことでしょう。
会報No.104 -その5-
世話人の思い
Dさん
私が、B型肝炎のキャリアであると言うことは30代前半に献血をし、日赤からあなたはB型肝炎のためもう献血に来ないでと言うハガキを貰い知りました。
B型肝炎て何や?その頃の医学界では、今で言うコロナと同じように怖いウイルス性の病気だと認識があったようですが、近所の医者へ聴きに行くと思い切りいやな顔をされ何の指示も無く、もう来るなと言うような態度だった記憶のみあります。今から18年前の62才の時に肝臓がんを発症し、(ステージⅡ 4cm大)と診断され切除手術を受けました。B型肝炎のキャリアだと言われてから、約30数年間無症状だった。本当に無症状だったのか? 50歳を過ぎた頃からB型肝炎のキャリアだと伝えて診察していただいていた、前記の医者ではない別の医者で血液検査を受け、肝臓の数値が悪い時に昨日徹夜でもされましたかと言われ数年そのままでした。
今の医療水準ならすぐに専門医へ行ってくださいと指示され、治療を受けてたら肝臓がんを発症していなかったかも!しかしその頃は、現在のように肝臓の専門医が多くいるわけでも無くウイルス性肝炎について知識の無い自分ではどうしようもありませんでした。
切除手術後、私を救ってくれたのは医者ではありませんが医学界に顔が効く大学時代の現在は東京在住の友人で、必ず再発するから少しでも長生きしたいなら自分の病気の状況を勉強しろと言われました。唯一彼にだけその昔にB型肝炎のキャリアであることを伝えてありました。
切除手術翌年再発を宣告され、その時期に各地で行われていたあらゆる肝臓の医療講演会に行き肝臓がんについて勉強を始めました。再発後の治療についても切除術を受けた病院の先生とは意見が合わず他の病院でラジオ波(RFA)で治療して貰うことにしました。
再発治療後病気について患者会が一番情報を得られるのではと思い、15年前に京都肝炎友の会に入会させていただきそれ以来世話人をさせていただいています。
その頃の患者会は200名を超える登録会員数でC型肝炎の患者さんがほとんどでC型肝炎は治る薬が出来、それまでB型肝炎を眠らせるアナログ製剤をうらやましいと言っていたのに、一夜にして逆転?B型肝炎は取り残されました。生きている間にC型肝炎の薬のようにB型肝炎も治る薬ができれば良いのにと願っております。
肝炎友の会では色々学ばせて戴きました。医療講演会の担当になり、準備から先生方への交渉京都府肝炎対策協議会の委員を拝命し、府の肝炎対策の講師や製薬会社の社員教育看護学校や大学での患者講義をさせていただいたり、15年間大変勉強させて戴きました。
患者講義後の批評は多数戴きましたが、その中で一つ心に残っているのは、Dさんの話をもう少し早く聞いていたらうちの親父ももう少し長く生きられたのでは?と言う内容で身内に患者さんがおられたり、患者本人で困っておられる方が多くいらっしゃるのではと患者会の存在意義を大いに感じます。
最後にこの15年間の間に私のまわりで患者会の世話人が3人それ以外で2人の方がC型肝炎やB型肝炎が原因でお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします。
私が肝細胞がん発症後18年も生きてこられたのは、家内の献身的な介護と友人の存在、それと肝炎友の会の存在のお陰と思います。
Fさん
母子手帳では
私はC型肝炎患者です。
1973年に第一子を出産し出産後出血が止らず医師から半日後に「出産後なので輸血が出来ないので、血液製剤で止血する。このままなら死ぬよ」と言われその治療を受けました。その後も疲れやすい日々を過ごしていました。
25年後(49才ごろ)手にしびれが出て神経内科を受診していたとき医師から「ウイルス検査しても良いか」と言われ検査してもらいました。その結果はC型肝炎でした。
その時点では、罹患率は25%で担当医と相談して、治療はしませんでした。(私の肝数値は悪くはなかったので)
C型肝炎と分かってから10年後60才のとき高齢ということでインターフェロンの治療を始めましたが、一回目も二回目もウイルスが消えることはありませんでした。
ハーボニ錠でやっと「ウイルス検出せず。」になりました。長い間、死ぬか、薬ができで間に合うか、と言われてきましたので薬が間に合いました。10年間は検査が必要ですが、C型肝炎にも救済制度が出来ていました。救済制度を受けようと弁護士さんに相談して、調べてもらいました。
出産後の時なので、母子手帳には、病院名も担当医師名も分かっていました。しかし病院にはカルテは無く(カルテの保管期間5年)担当医師も亡くなっていましたので、証明が出来ず救済の対象にはなりませんでした。病院自体は薬害の止血剤(フィブリノゲン )を使っていたことを認めていましたが、カルテがないので、誰に使用したか分からないのです。
母子手帳には、子供の成長記録は記入してありますが。母親の産後の体調等の記録するところはありません。救済制度には役に立ちませんでした。
母子手帳なのに!
会報NO.104 -その4-
世話人の思い
Aさん
昨年令和5年11月より京都肝炎友の会の世話人に参加しています。
令和2年3月に肝炎医療コーディネーターの研修後、認定されました。当時はコロナ感染の状況の下でもあり、肝炎友の会の活動も自粛されているとのことでした。昨年5月8日からコロナは感染症となりましたが、感染症はジワリジワリと増加の状況でした。そのような中、京都府から肝炎医療コーディネーターの認定更新の案内送付がありました。その中に京都肝炎友の会の冊子が入っておりそれを見て改めて連絡し、世話人会に参加することになりました。世話人会では皆さん忌憚のない真摯な話し合いには頭が下がる思いです。京都肝肝炎友の会が今まで積み上げてきた活動の実績を京都府や京都市と相好的な関係を継続させながら会が発展できることを願っています。
Bさん
私は今年の4月でB型肝炎を発症して、50年になります。
そして、京都肝炎友の会には2017年の総会に参加して以来、世話人会にも参加するようになりました。 この間、7年弱ですが、私たちウイルス性肝炎患者の置かれた状況や国・自治体との関係など多くを知ることが出来ました。
発症の主な原因は国の誤った判断によるもので、肝炎対策基本法の前文にも示されています。その上でこれからも、患者支援の思いをしっかり持って活動を継続していきたいと思っています。
Cさん
結婚して長女を出産。これは新しい人生に始まりです。その時告げられたのは「あなたはB型肝炎です。母乳はあげないでください。同じ箸で食べ物を口に入れないでください」と。母乳は捨てました。それでも子供は母子感染していたのです。長男も同じように母子感染していました。私自身は子供が小学生のころ、肝炎を発症しました。そのころは母親の介護もありました。治療もほとんどせず、ビタミン剤だけ注射してもらっていました。肝数値値は上がったり、下がったり。そんな中で少し調子のいい時をついて動いていました。両親4人を20年間介護しました。そしてその後は子供のフォローに変わりました。娘が働きながら家庭を持つことは体にダメージを与えるのではないかと思い、少しでも休ませてあげたいと思ったからです。娘が肝臓や他の臓器の治療入院の時は娘や、孫たちに寄り添ってきました。長男は就職活動がうまくいかず、体を壊し始め、あっという間に脳性肝炎となり肝移植まで進行してしまいました。それからもう5年以上になりますが、体を維持するため、大量の薬を飲み続けています。そのためか薬による体調の変化が見られ、良かったり、悪かったりを繰り返しています。体にも心にも多大のダメージが与えられているようです。子供も私も悩みながらの5年間です。仕事にも行けるようになりましたが体の不調により活動できないことが多いです。私はじっと見守るしかできません。これからもずーっと子供たちを見守るだけです。
月1回の世話人会に参加しています。肝臓の専門医の講演会や、薬メーカーの参加されて一緒に話を聞いたりしました。肝臓のことについて様々なことを知ることも出来ました。特に会報は繰り返し読めるのでいいと思います。世話人会でみんなの顔を見ると肝炎の話が中心になってしまうのですがそれは安らぎにもなっています。
会報NO.104 -その3-
第33回日肝協全国代表者会議 イン東京
11月3日、第33回日肝協全国大会が東京でありました。日肝協の常任幹事の川原さんと、山副が参加しました。今回は時間も短縮され午後に代表者会議がありました。
参加団体は北海道・秋田・群馬・長野・栃木・京都・奈良・滋賀・大阪・兵庫・愛媛・東京の12団体で、49名の参加でした。
代表者会議は司会の常任幹事さんの挨拶から始まりました。院内集会で来ていただいている国会議員も何人か来ていました。
主催者あいさつで日肝協代表幹事の山本さんは「日本の肝炎対策が大変進歩して多くのことが解決してきたが、残された課題について話し合いましょう」と述べられ、B型肝炎の創薬・肝がんの薬剤治療・肝硬変の治療・肝がん重度肝硬変の医療費助成と自己免疫性肝疾患の現状を話されました。
来賓で来られていた厚生労働省・肝炎対策推進室・室長の挨拶の中では肝がん重度肝硬変の医療費助成について、今年(23年度)採択された国会請願署名を重く見て、制度の改善を検討していると話されていました。この後代表者会議では議案書に沿って報告・論議のあと拍手で承認しました。
議案書の承認の後、参加団体全員の発言コーナーがあり、京都の取り組みをしゃべってきました。1年かけて終活論議をしてきたが結論として京都肝炎友の会という名称は残していく。今いる世話人会で踏ん張れるところまで踏ん張ると公言してきました。あと一つ、「知って肝炎」について京都は終わっているが、運営はどうなっていて、日肝協は噛んでいるのか、もし噛んでいるなら年度の反省と課題を見つけて要請のある自治体を廻っているのかを尋ねました。
初めて知りましたが日肝協も含め実行委員会形式で運営されているとのことでした。それではなぜ京都府は患者会に声をかけなかったのか、ということについては京都府が患者会は入れませんといってきたということでした。税金を使っての国を挙げての肝炎対策としての啓発キャンペーンの取り組み。わが患者会ができることは啓発です。今までも講演会や、会報で情報発信や電話相談もしてきました。そんな取り組みに地元の患者会に声をかけない京都府。少々情けなくなりました。京都府もおかしいが実行委員会でも患者会を入れないと分かった時点でそれはおかしいのでないかといってほしかったです。そしてめったに行くことのない東京でしたがもやもやしながら帰ってきました。